「買っているどころではない、今日一日ですっかり骨抜きにされてしもうたわ」
「まぁ、それは大変」
夫婦の間に朗らかな笑い声が響いた。
「なれどな、小見。あの婿殿に最も骨を抜かれておるのは、どうやら我らの娘のようじゃぞ」
「帰蝶が──。 此度の会見の場に、あの子も参上していたのですか?」
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「帰蝶は元気でやっているのでしょうか?」
「ああ。尾張では濃姫などと呼ばれておるようでな、幸いな事に、輿入れてから今日(こんにち)に至るまで一つの病もこれなく、至極健勝に過ごしておるようじゃ」
妻を安心させようとする優しさからなのか、道三はいつにない穏やかな口調で告げる。
「それを聞いて安堵致しました。敵国であった尾張に嫁いだばかりに、不遇な扱いを受けているのではないかと、日々案じておりました故」
すると道三は、笑いながら「いやいや」とかぶりを振った。
「不遇どころか、帰蝶め、上手く夫の心を掴んでおるようでのう。話に聞く限りでは、おなごとしての幸せを謳歌しているようであった。
……ここだけの話、婿殿と手を組み続けるか否か、その判断にとどめを差したのは、誰あろう帰蝶なのだ」
「まぁ、あの子が?」
「それも、目に見える無言の警めをもってな」
「無言の警めとは、何のことでございましょう?」
「ん? ──いや、それは申せぬ。これは儂と帰蝶との間だけの、密事(みそかごと)故な」
一人快然と微笑(わら)う夫を、小見の方は怪訝とも得心とも付かぬ表情で、しげしげと眺めるのだった。
草木も眠る丑三つ刻。
那古屋城・奥御殿にある夫婦の寝所に、座敷の中央に敷きのべられた白い夜具の上に端座し、
道三から賜った短刀を、大事そうに両の手で握り締める濃姫の姿があった。
灯明の火はかれこれ一時ほど前に吹き消され、室内は障子越しに射し込む青白い月明かりのみであったが、
濃姫はそれでもお構い無しに、ほぼ影と形しか見えない短刀を、和やかな面持ちで眺めていた。
姫のすぐ傍らでは、夜着を着崩した信長が、小さな寝息を立てながらすやすやと眠っている。
帰城した時には、濃姫を掻き抱いて『今宵は寝かさぬ!』などと叫んでいた信長だったが、結局この通り。
事が済んだらさっさと寝入ってしまったのである。
だがそれも致し方のないことだろう。
此度の会見で散々体力と神経をすり減らし、正徳寺から那古屋城までの行きと帰りの往復。
その上道三を長々二十町も見送ったとあれば、疲れ切っていて当然である。
「……殿」
濃姫は、我が子を見守る母のような表情で、暫し信長の寝顔を見つめると、ふぅっと一息吐いてから再び短刀に目線を移した。
『──これをそなたに返すぞ。借りていた親父殿の刀じゃ』
『有り難う存じます。 …して、お役に立ちましたか?』
『ああ、大いにな』
『それは何よりな事にございます』
『親父殿の意はほぼ決まっていたようじゃが、儂がこの刀を身に帯びているのを拝された事で、
よりはっきりとお心を決めて下されようであった。きっと、そなたの思いが親父殿に通じたのであろうな』
つい数時間前。
この床の上で信長と交わした会話が、濃姫の頭の中を足早に駆けていった。
信長は思いが通じたと言うが、きっと道三は少なからずの失望を覚えた事であろう。
尾張攻略の布石であったはずの娘が、今ではすっかり信長の支持者となり、
道三から賜った短刀を、夫を殺める為ではなく、夫の命を守る為に使ったのだから──。